功利主義...利益と幸福とを求めることが、人生・社会の最大の目的であるとする思想的立場。
...というと何となく聞こえは良いけれど、
この主義の主張を聞いていると、
人間にとっての「幸福」とは、そして「美徳」とは一体何だろう?
と考えさせられてしまう事が多い。
多くの人々(つまり社会)が幸福を最大に感じられるためには、
少数の人々(もしくは個人)の犠牲は仕方がないといった考えに行き着く場合があるからだ。
4人の登山チームが山で遭難して食料が残り少なくなってきた。
このままでは全員が死んでしまうと見たリーダーは、
「4人の内の誰かが犠牲になって死に、死んだ人の食料を残った3人に分配しよう」と提案した。
果たしてこういう考え方は正しいのであろうか?
例え、4人全員が賛成し、
フェアーなやり方で犠牲者が決められたとしても、
1人の犠牲のおかげで3人が生き残ったという事に、
社会では賛否両論が飛び交うに違いない。
1人の犠牲の上に多数の幸福。
もしこの原理だけを応用するとしたら、
クラスで1人の子供をいじめる事によってそのクラス全員が「楽しい」と感じるのなら、
そのクラスでのいじめは正しい行為だと受け入れられる事になってしまう。
当然、人や社会には「道徳心」というものがあるから、
状況に応じて人の道を外れない範囲で功利的な考えをしなくてはならない、
という意見がここで出てくるのだろうけど、
じゃあ、一体「人の道に外れない範囲」というのは誰が決めるんだ?という事になる。
ある人は「そういう時のために『法律』があるんだ」と言っていた。
そうだろうか?
法律は「人はこうやって生きるべきだ」という事にまで口だしするべきだろうか?
もしその権限が法律にあるとしたら、
社会にはたった一通りの「いい人」しかいなくなってしまう。
法律の言う「いい人」というのに当てはまらない人全員が悪人だなんておかしいと僕は思う。
人間性というものは多面的だし、社会だって多元的に出来ているんだから、
色んな種類の「いい人」がいるのは当然だ。
別に社会全体で考えなくとも、人付き合いでこういう状況っていくらでもあると思う。
2人いればもうそこにはそれなりの社会というものが存在するからだ。
何が正しいかなんて僕には分からない。
でも、何が正しいかを決められないようじゃ、善悪の定義はどうなるのだろう?
こうやって考えると、世の中はジレンマだらけだね。
でもね、めっちゃこじつけっぽくなってしまうけど、
僕がこのブログで言いたかった事は、
「Super Trio 3℃」で石田さんと金子さんと音楽してる時や、
假屋崎先生の華麗で美しいお花に囲まれてショパンを弾いている時は、
「何かの答えが出た」って気になるって事です。
ちょっとまだ整理されてなくて語るのは難しいのだけど、感覚的にそういう事ってないですか?
式を解いた訳ではないけれど、答えがなんとなく解ってしまう...みたいな。
どうしてかはちゃんと言えないのだけど、それが正しい行為だと確信を持って言える...とか。
僕は今まで「音楽家は医者やパイロットのようには
絶対的に社会に必要とされていない」と考えていたのだけど、
最近その考えが変わってきたのかもしれない。
たぶん。
それがステップアップなのかどうかは別として、
少なくとも僕の中では非常に意味のある変化です。
功利主義という考えが出てきたのは、社会にジレンマがあるからだと思う。
そして、ジレンマがあると言うことは、
一つの物事に対してもう一つ対抗する勢力があるという事。
確かに。うん。そうだ。
大抵物事は簡単には進まないし、
誰かの幸福には誰かの犠牲がついてまわる事もよく感じる。
だけど、崇高な芸術が繰り広げられている空間には、それが感じられない。
上野の東京文化会館での公演。
3℃のメンデルスゾーンの終わり近くになって盛り上がってきた時、
「この行為に害があるか?」と僕は一瞬考えた。
しかし、どうしても害らしきものは見つけられなかった。
もしかしたら「ふざけんなよ、めっちゃへたくそじゃないか」と
怒っていたお客様も中にはいらっしゃったのだろうか?
うん、いたかもしれないな。
みんなを説得する音楽なんてこの世にはないのかもしれない。
美しい芸術・音楽においては、功利主義の主張自体が必要なくなるんだ。
僕はこれからもそんな舞台を経験出来るように、頑張っていこうと思います。
だから、また生で聴きにきてね。








